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追悼 チバユウスケ



チバユウスケが亡くなった。

いや不謹慎だがあえて「死んだ」という表現の方が彼には似合う。

チバユウスケが死んだ。


ぼくは子供の頃からテレビのヒットチャート上位の曲、いわゆるJ-POPを聴いていた。音楽を聴くのは好きだが根っこはただのミーハーだった。


中学の頃に雑誌の最後のほうのページによくあった初心者セットのギターを買い、文化祭的なやつでビートルズとMR.BIGのコピーをしたりした。


同時期にヴィジュアル系ブームがあり、GLAYにハマり、高校のときに組んだバンドではJIROモデルのベースを買って弾いていたくらいだ。スーパーサイヤ人みたいな髪型を真似るくらい痛い奴だった。


でも何がきっかけだったかは忘れたが、高校生活も終わりになる頃に出た「カサノバ・スネイク」というアルバムを買って聴いたら衝撃が走ったのを鮮明に覚えている。




前述したとおり昔から音楽を聴くのは好きといえど専ら「流行りモノ」を聴いてきていたため、自分から聴きたいと思ってCDを漁って買って聴くタイプではなかった。


今こうして思い出すと割とそういう目覚めとしては遅い気はする。


ミッシェルと出会い、J-POPにはない心を揺さぶられる楽曲に、一度聴いたら頭から離れないチバの歌声の虜になり過去の作品も片っ端から聴くようになった。


尤も中学〜高校時代にHi-STANDARDも時代を席巻していたが、その波には乗り切れずにいて、もう少し後に好きになった。


あと音楽好きな人は大体洋楽の誰々を聴いて〜みたいなエピソードをよく目にするが、よくわからないんだがぼくは「日本人に外国人の気持ちは理解できない」みたいな、今聞いたら多様性もクソもないような考えみたいなのが漠然とあり、その頃は洋楽も周りに合わせて聴いているくらいだった。


何だろうその偏見。


そういうマインドのせいで洋画も率先しては観ないタイプだった。というか映画館の席に2〜3時間座っていなければならないというのが苦痛でしかなかったから映画自体もあまり観ないつまらない奴だった。


そんな奴の父親は「シャンソン評論家」という、いかにも胡散臭い仕事を当時から今なお続けているのだから人生とはよくわからないものだ。


話を戻すと、ミッシェルと出会ってからはロック至上主義みたいな感じになっていた。

なので当時ハイスタを起源として発生したメロコアブームにより、次々と現れたそういう系のバンドはみんな同じに聴こえてしまったため(失礼!)、「いや、ロックのが絶対カッコいいんよ」と逆張りとも取れるようなマインドになっていた。

原宿のルードギャラリーで服を買ってたりもしたなぁ。


今となればジャンルでなく「カッコよければオールOK」と思うのだがそれも若さゆえだと思う。


その後高校から美容学校へ進み、美容室に就職したが向いていないと思い一旦社会からドロップアウトして高校時代の友達とバンドを組んだ。


そして始めてから間も無く訪れたのが「ミッシェル・ガン・エレファントの解散」であった。

ミッシェル好きを継続していながらも実は一度もライブを観たことがなかったのだが、その時バンドをやっていくと心に決めたからには何としてでも観ねばと抽選に申し込み、無事にチケットを取り、幕張でその最後を見届けた。




初のライブがラストライブだったのは残念であった。

が、鬼気迫るパフォーマンスは圧巻だった。

汗だくのロッカーたちがダイブしてモッシュしてシンガロングする最高な時間だった。

特にラストの世界の終わりの曲中でアベフトシのギターの弦が切れても動じずに黙々とプレイする姿がカッコよく、ラストのサビでチバの声が出なくなる瞬間を見たときに「これで最後だと」と突きつけられた感があった。


その後、音楽雑誌のライブレビューに「チバが世界の終わりで声が出なくなることは今までなかった」「それを見て解散することを受け入れるしかなかった」と書かれた記事を見てうんうんと頷いたものだ。


解散後、各メンバーは他のバンドを組んだり、サポートでステージに上がったりなどの情報があったがチバはしばらく沈黙を続けた。


そして待ちに待ったチバの今後の活動の情報が飛び込んできた。

「RAVEN」という、元ブランキーの照井さんのソロプロジェクトで歌うと。



ブランキーとミッシェルが融合するなんてそんなワクワクある?と胸を躍らせたものだった。ましてや当時ぼくはベースをやっていたのでチバの歌声と照井さんの独特なベースラインまで聴けるのはブラックフライデー以上にお得感満載だった。


で、「RAVEN」のアルバムにある「Cherry Bon Bon」という曲のMVに解散後以来全くと言っていいほどメディアに姿を表さなかったチバが、チバの叫び声が映し出された。しかも伸ばし放題の髪型になって。


その声はより力強く感じられ、一回死んだあとの悟空みたいなヒーロー感を感じさせた。


RAVENは1枚アルバムが出たきりで終わり、矢継ぎ早にミッシェル時代の後期に照井さんと組んだ「ROSSO」というバンドでRAVENのメンバーのまま再始動するというアナウンスが流れ、これまた個人的歓喜に湧いたのであった。




それまで待ちに待った思いを晴らすようにCDが出れば買い、ライブがあれば行くというサイクルになっていった。


が、しかしである。


再始動直後のROSSOはまだ良かったのだが、段々と「今までのチバのロック」とは離れていくような楽曲が増えた感じがし、「こういう変化も受け入れるのがファン」と思いながらも2年くらいで活動も休止となってしまった。


また訪れるチバロス、と思いきや直後に結成されたのが「The Birthday」。


しかもドラムは元ミッシェルのキュウちゃん!

またキュウちゃんのドラムでチバが歌うとはなんというストーリーかと。

ギターはチバと「Midnight Bankrobbers」というユニットまで組むほどROSSOのときから相性の良かったイマイアキノブ、ベースはてるる…というバンドにいたヒライハルキによる構成。

ヒライハルキに至ってはぼくより年下でそんなベーシストがひとまわり以上離れた人たちとバンドを組むってことも新鮮に感じた。


で、肝心の楽曲はROSSO後期の壮大なおとなしい大人のロックみたいなそれとは違う、それこそミッシェルへの原点回帰とまでいうと大袈裟だけどあの頃のロックに近いサウンドになっていてそれはそれはまたアツかった。


言わずもがな新譜が出れば買い、ライブへ行くという感じになっていった。


そんな中2009年7月に元ミッシェルのアベフトシが急逝。

ミッシェルの楽曲を支えたあの高速カッティングがもう二度と聴けないんだと思い深く悲しんだ。

解散後他のメンバーは他バンドに力を入れ始めたのに対し、アベはサポートや他バンドを組んでもあまりしっくりきていないように見受けられたのが気にはなっていた。



ミッシェルで、チバのバックでギターを鳴らす、憶測でしかないがそれ以上のプレイは他の人たちとはできないと悟ってしまったのではないだろうか。

亡くなる前は故郷の広島でペンキ屋をしていたらしいのでギターを弾く理由すらなくなっていたのかもしれない。


そしてその瞬間にミッシェルの再結成(オリジナルメンバーでの)は(本人たちがしたかったかどうかは別として)なくなった。


アベが亡くなった直後のフジロックでThe Birthdayとして出演したチバは「大親友のアベフトシのためにライブする」というMCをしたと聞いてまた胸が熱くなった。


その後のアルバム「I’M JUST A DOG」に収録された「爪痕」という曲はアベのことを歌っているのではという憶測も流れ、解散後も関係は良好だったことが伺えた。


その後もコンスタントに新譜をリリースし、ライブも精力的にこなしていくバースデイ。


ぼくは2019年のアルバム「VIVIAN KILLERS」のツアー以降ライブに行っていないため、実質それが最後のチバのライブとなってしまった。


コロナがあったり、単純にチケットが取れなかったりで、行きたくとも行けなくなってしまい、それ以前に比べれば聴く頻度も少なくはなってもいた。


だがしかし、である。


2022年公開の映画「THE FIRST SLAM DUNK」のオープニングテーマとなったのが「LOVE ROCKETS」。




エンディングテーマの10-FEETは京都大作戦でバスケのエキシビジョンをしたり、大阪籠球会とコラボしてパフォーマンスしたりと親和性があるため想像に難くなかったが、ビールとタバコまみれでFC東京サポだが運動不足(だろう)、しかも50代のThe Birthdayになぜオファーがきたのか少々理解に苦しんだ。


映画館に足を運んだらそんな思いは杞憂に終わった。

井上先生の描く鉛筆画にシンクロする出だしのベースライン。

常人の想像を遥かに超えたオープニングに一気に心が持っていかれた。


そして2023年の京都大作戦にはThe Birthdayがラインナップされた。

10-FEETとThe Birthday、この両者の絡みが今後も増えていきそうだと、また心が躍った。


しかし2023年4月にチバの食道がんが公表され闘病生活に…クワトロのライブ(落選)、京都大作戦(クリエポ翌日〜+遠方のため見送り)がそれぞれ中止と辞退という流れとなった。


それからと言うもの全く経過の情報が流れてこないことに心配をしていたが、ミッシェルやROSSO、The Birthdayの音源やライブ映像を観てきっと大丈夫だと思い込ませていた。


チバのことだから完治させて、いきなりツアーのスケジュールをドーンと公表して復帰するものだと思っていた。なのにさ、なんだよ。なんでだよ。


何の情報もなかったのは逆の意味で流せないような状況だったのかな。

闇すらも切り裂きそうなあの歌声を持ってしても、がんってやつには敵わなかったのかな。


運命ってやつは時に優しくて、時に残酷だ。


ぼくは高校の頃にミッシェルに出会い、ミッシェルの楽曲はもちろんのこと、チバユウスケという男に惚れた。


歌声はもちろん、物語のように紡がれる独特の歌詞の世界観、実は絵を描くのが好きなところなど、その生き様すべてがカッコよくて憧れた。

チバの音楽に幾度となく救われた。

だからこそ解散後もチバの動向をずっと追っていた。


こうして振り返ってみても1人のアーティストを長年ずっと追っているのはチバだけだということに気がついた。


ぼくは飽き性なところがあるけど、音楽に関しては好きと決めたアーティストを割とループで毎日のように聴いてしまう保守的なスタンスである。

職業柄その体質が困りものになることがあるが…


アレコレと聴き漁る器用さがないと言えば聞こえがよいが広く浅くよりは狭く深くな方だと思う。


そんなチバが今、もうこの世にいないという事実がやはりまだ受け入れきれない。

空っぽになった感覚で色んなことが手につかない。


受け入れるとか割り切るとかは時間に任せて、気持ちを落ち着かせるためにこうして文字にして今の気持ちを残しておこうと、ダラダラと文字を殴り書いている。



ミッシェルの頃は硬派なロックという感じで歌詞も一見意味不明(一貫してあるが)だったり、無骨なイメージだったが、解散前にリリースした「GIRL FRIEND」という曲ではじめて「I LOVE YOU」というワードを使用したと記憶している。


バンドなどの形態問わずその後の楽曲でも「愛」を歌うことが増え、ストレートな言葉選びも出てきてチバの心境の変化みたいなものが垣間見れた。奇しくも遺作となってしまったのが「LOVE ROCKETS」。


「BABY YOU CAN」という曲の終わりに<俺達はまだ何もしてねぇよ>という一節があり、この当時ぼくはイラストレーターをはじめてまだ日が浅い頃だったのだが、ミッシェルという伝説的なバンドを終えたチバでさえも「まだ何もしてねぇ」って言うなら頑張らないとなって背中を押してもらったこともあった。

それにタイトルもさ、訳したら「お前はできるよ」だからね。


あとPUFFYに提供した「誰かが」って曲には<誰かが泣いてたら 抱きしめよう それだけでいい><誰かが倒れたら 起こせばいい それだけでいい>といった一節があり、チバの優しさが滲み出ていて、物事の本質はシンプルなんだと悩んだときにはそう立ち返らせてくれる言葉が心地いいものもある。


こんな感じで色々と挙げ出したらキリがないけど曲の数だけ色んな気づきや思いが詰まっている。


私生活ではトンチンカンなエピソードも多々あるけど、ステージに立てばしっかりキメる、でもMCでお茶目なことを言ったりもする。


曲がいいだけでもよくなくて、人がいいだけでもよくない、両方大事なんだって言うのがチバから学んだことなんだなって、こうして整理してみたら改めて思い至った。


この悲しみは簡単には抜けきらないとは思うけど、楽曲の中では今聴いてもちゃんとあのしゃがれ声でチバは歌っている。

そうやって残していってくれたものがあるだけでも幸せなことだと思わないとなって少しずつ思いはじめている。


面前で会うことは叶わなかったけど、こんな奴がいたんだよってことだけでも伝えておきたい、それだけ。


チバありがとう。

これからもよろしくね。






<振り返らず 錆びた風は続くだろう>

<ざらつくダニー かき鳴らしていくんだろう>

ダニー・ゴーより



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